みのやは320年。
弥彦とみのやの歴史
-
約2000年前
天香山命の上陸
私たちが日々感謝と祈りを捧げる弥彦神社。その御祭神である天香山命(あめのかごやまのみこと)は、神武天皇より高志の国(越の国)の国造りの命を受け、紀伊半島から美濃国を通り北陸へ向かい、そこから船に乗り現在の長岡市寺泊へ上陸をされました。その後、この弥彦の地に居をかまえ、越の国の開拓に力を注がれました。これが弥彦村と食の宝庫・新潟の始まりです。みのやの先祖は天香山命が歩まれた道を辿るようにして、この新潟に来たのかもしれません。
-
平安時代
古代の文書に記された弥彦神社
弥彦村の歴史を紐解くと、村内には縄文時代の遺跡や古墳が多くあるので、古くから人が住んでいたようです。奈良時代に編まれた「万葉集」、平安時代に成立した「延喜式」などの古い文献には、霊験あらたかな弥彦神社のことが書かれており、この頃にはおやひこさまの力は広く知られるようになっていたと考えられます。平安時代後半には弥彦村一帯は弥彦荘と呼ばれる荘園となり、新田開発が進みました。
-
江戸時代
みのやの創業
江戸時代の弥彦は門前町として、また北国街道の宿場町として大いに栄えました。徳川将軍家や長岡藩から朱印状・黒印状が与えられ、弥彦神社の神領地として租税が免除、収益はすべて弥彦神社に納められました。おやひこさまとともにあるムラ、という意識はこの頃から芽生えたのかもしれません。
みのやの創業は徳川5代将軍綱吉の時代。生類憐みの令で有名ですよね。そして同じ頃、弥彦山の西側の間瀬から良質の銅が算出したことにより、お隣の燕市や三条市で和釘作りが始まりました。和釘の技術はやがて刀鍛冶や鎚起銅器へと受け継がれ、世界トップレベルの技と質を誇るものづくりの街へと発展していきました。 -
明治時代
大火に包まれた弥彦
明治45(1912)年、弥彦を大火が襲います。神社を始め門前町の多くが焼失する大惨事で、みのやの建物も古い資料もすべて燃えてしまいました。しかし、おやひこさま譲りの開拓精神を持つ弥彦村民ですから、いち早く復興に乗り出します。
-
大正時代
復興・そして現在(いま)へ
大正5(1916)年には弥彦神社再建と越後鉄道弥彦線(現在のJR弥彦線)が開通し、より多くの方が参拝に来られるようになりました。
お客様の笑顔に支えられてきた300余年のみのやの歩み。
その時々の館主がお客様と結んだご縁の重みをこれからも大切に守りながら、新たな歴史を刻んでいきたいと思っております。
みのやの歴史を辿る
秘蔵コレクション
彌彦神社再建設計図
弥彦神社の再建計画の際に作成された手書きの設計図です。
上空から撮影する手段もない中、正確な設計図を起こしていた当時の技術には目を見張るものがあります。
年賀はがき・マッチ箱
昭和初期頃のお正月にお配りしていた年賀はがき(左)と、1976年頃まで当館でお出ししていたマッチ箱(右)です。
明治時代の彌彦神社
大火に包まれる前の弥彦神社の貴重な姿を写したポストカードです。多くの人で境内はにぎわっていました。
勅使殿・社務所
勅使(ちょくし)とは、勅旨を伝えるために天皇が派遣する使者のことを指します。
勅使専用の施設として機能していた勅使殿の他、神社での祭事や祈祷の受付などを行う社務所がありました。
大正5~10年頃の
彌彦神社
鳥居の奥に本殿が見えます。集合写真に写る人々の服装なども当時の趣を感じさせます。